ブンキロ

​アフタートーク

"ブン"の時代から始まるコーヒー史アドベンチャー。

参加者のコメントやQ&Aをまとめています。

ブンキロ参加者は以降、アフタートークのみ参加可能!

(キシリーヤチャイ代として500円頂きます。)

前日までにcontact@yuyaroast へご連絡ください。

​●次開催は未定

​ブンキロ詳細

1st BUNKIRO 2020/02/08

参加者コメント

「キーワードのco feeを今後、濃くまとめていきたい。」「コーヒーの裏の話、考えたこともない。」「コーヒーから見る歴史は面白い。」「高校時代の授業大事。」「自分の身近なものを通すと歴史が自分事になる。」「映画には大事なメッセージがたくさんこもっていた。」「メディアがブンキロの内容を発信してほしい」「飲食業界のエネルギーはAI化などに偏っている。」「AIには嗅覚を捉えられないのでは。(調味料はカルチャー性がある)」「メルボルンではエコが当たり前。コンビニマシーンもマイマグ使用者に対応している。」「SNSの登場でコーヒーのファッション化が進む。」→「コーヒー生産者と消費者の間にも双方向性が生まれてきた。」

 

Q.『コーヒー生産者になにができるか?』

A. 一般論として、農協を作るなどをして取引力を強化することが挙げられる。現在はICAのような国際的な枠組み(大きな政府)が無いため、部分的に解消していくしかない。そもそも消費者側にも出来ることが用意されている。コーヒーにおけるフェアトレードのシェアは日本では1%にも満たない。ヨーロッパでは宗教的な背景もありフェアトレードの普及は進み、特にイギリスでは10%に到達されているとも試算されている。

 京都大学辻村教授のフィールドワーク地「キリマンジャロ・ルカニ村」は長年のフェアトレード事業により、元コーヒー生産者がようやく山に戻ってきた。周辺のコーヒー農家は既に"コーヒー離れ"しているケースも多い。コーヒー産業における農家の立場は依然として厳しく、生産者側へ過度に期待を向けるのはフェアではないとも言える。コーヒー生産者にはコーヒーをやめるというブンキロもあるが、多くの場合、それは取引力の弱い小規模農家の窮状であることは考慮したい。彼らの栽培方法はシェードツリーを伴うオーガニックな環境が多いが、コーヒーをやめて畑一面を換金性重視の単年作物にすることは、多様な自然を失うことにつながる可能性が高い。

※ICA (International Coffee Agreement) 1962年~1989年に機能していたコーヒー生産国と消費国にそれぞれの輸出入量を割り当てていた国際経済条項。

ADB3BBE1-82C6-4D67-AB1B-41685EB6065C.JPG
一杯のコーヒー
IMG_9877.JPG.jpg
IMG_1751.jpg
601022BC-EDB7-4BC0-9AF8-C9B35DD3C326.JPG
D48737B6-6263-49E1-9EA9-A872CEAF9063.JPG
IMG_3722.jpg
IMG_7708.jpe

 

2nd BUNKIRO 2020/08/23

参加者コメント

「コーヒーを突き詰めると文化にあたる。」「何もしなければコーヒーはベールに包まれたまま。」「飲むことで人とつながるきっかけになる。」「コーヒーのバックボーンを意識しながら飲むようにしたい。」

Q1-昔の人はどんなコーヒーを飲んでいた?

「時代と地域を区分して考える必要がある。1500年頃のアラビア圏には(露店でない)初のコーヒー専門店がいくつか存在した。アルコール禁止のイスラーム社会に歓迎されたこと、そして、カフェインの覚醒作用を儀式に用いたスーフィズムの存在が大きい。注意点は、焙煎されたコーヒーを用いる現代的なものだけでなく、ブンやキシルと呼ばれる未焙煎のコーヒーチェリーの加工品を用いていたこと(こちらが先行)。16世紀半ばには、オスマン帝国の首都イスタンブールにおいて、コーヒーの流行に伴い円筒式の手回し式焙煎機やコーヒーミルなどのコーヒー専用器具が考案された。オスマン帝国崩壊後、コーヒーの主産地はモカ→インドネシア→ブラジルと19世紀半ばまで徐々に変遷していく。ブラックやストレートと呼ばれるようなコーヒーの味わいを直に楽しむよりも、砂糖やミルク、スパイス等を混ぜて飲むことが一般的であり、焙煎時から既にコーヒーに砂糖をまぶすこともあった。特筆すべきは"代用コーヒー"の文化である。これは主に、17世紀後半に"コーヒーの味を覚えた"ヨーロッパ諸国が、その後の戦争をやりくりする中で日常品の不足を補う工夫の中で生まれた産物である。列強国と植民地の結びつきが強いほどコーヒーの確保には有利だった(例 イギリス、オランダ)。1777年、プロイセン(現ドイツ)のフリードリヒ大王がコーヒーに重税をかけたことはコーヒー禁止令として有名だが、それでも収まらないコーヒー消費に更に制限をかけるために1781年、王室以外でのコーヒー焙煎を禁止した。狙いは通貨の海外流出防止と国内ビール産業の保護。こうして化学に強し戦争に弱いドイツは代用コーヒー分野で成果を挙げ、18世紀~20世紀の長い間、純正よりも代用のコーヒーの方がより多く国内に出回っていたとされる(主な原料は小麦やどんぐり、タンポポの根)。言い換えると現在の私たちは、常に複数の"混ぜ物でないコーヒー"に囲まれており、好きな時に好きなものを選べるという贅沢な生活を送っているとも捉えることができる。日本では鎖国時代がちょうど世界のコーヒー伝播と重なるため、開国と共にあらゆるコーヒーカルチャーが流入した。明治中期には、コーヒーの粉末を入れた角砂糖である"コーヒー糖"、もしくは、牛乳・砂糖に加えてレモンで風味付けした"冷やし珈琲"などが登場した。これらは製菓・製氷業者が主体となって売り込んだのが特徴的。」

Q2-焙煎機やミル登場のタイミングは?

「現在も主流のドラム式焙煎機の元祖である"バーンズ焙煎機"の登場は1860年代のアメリカ。同時代、この技術を応用して焙煎業を営む大会社が現われる。背景に2つの大きな要因がある。一つは、生産国側で水洗式と呼ばれる精製法が採用されはじめ生産量の拡大が起こったこと。もう一つは、南北戦争後のアメリカを中心に欧米で工業化が進み包装・運搬技術が向上したことと、それによる労働者階級の底上げでコーヒー消費が伸び、より日常品として親しまれるようになった。ミルについて、古来より石臼などで砕いて粉状にすることが一般的。コーヒーを豆で保存する、つまり、コーヒーの品質を保存するという嗜好的な発想は意外と遅い価値観である(薬効品としての価値止まり)。1840年、仏自動車会社のプジョーが作った二重螺旋臼方式が初の本格的な工業用ミルとされており、1867年から続くドイツのザッセンハウスも同様に現役で有名。但し、一般家庭に普及するのは20世紀に入ってからだと考えられる。1910年代にアメリカ国内にスーパーマーケットが初めて誕生した付近でメーカーも増え、バラエティが豊かになっていった。

Q3-ロブスタ種はなぜ強いのか?

「現在、世界に流通するコーヒーの約4割がロブスタ種である(正式名称はカネフォーラ種)。Robustaは"頑強な""粗野な"という意味。19世紀末に東南アジア(主にスリランカ)で※コーヒーさび病が出現したときに唯一、全ての型のさび病に耐性を持つものとして見いだされた。病害に強い理由は一言でいうと"カフェインが多いから"である。ロブスタ種のコーヒーはカップの状態では苦みの元となるクロロゲン酸類やカフェインが多く(アラビカ種のおよそ2倍)、そのためアラビカ種に少しブレンドする増強剤のような役割を担うことも多い。そもそもカフェインは植物学的には害虫を寄せ付けない"忌避効果"が期待されている。そのため、落果したコーヒーチェリーから土中にカフェインが沁み込んでいき根を張るためのバリアを作る。より専門的なロブスタ種とアラビカ種の違いは受粉スタイルである。ロブスタ種は自家不和合成という性質を持っており、これは他者の花粉とめしべでしか受粉できないため、送粉に失敗するリスクが高いが遺伝的な多様性を確保できる。ちなみに、アラビカ種は同一の木でも受粉可能な※自家和合成という生存戦略をとった。実はこれがコーヒーノキの世界進出に大きく貢献した。(例 ガブリエル・マチュー・ド・クリューの逸話)

※コーヒーノキ属(125種ほど)の中で自家和合成の性質を持つのはアラビカ種のみ。

※カビの一種による伝染病。コーヒーノキの天敵であり、気候変動の影響で今後さらに生産地に悪影響を及ぼすと考えれらている。詳細はCQIの動画より。

Q4-ハイブリッドは接ぎ木なのか?

「ハイブリッド種はほとんどの場合、接ぎ木である。現在、世界に流通しているアラビカ種の多くはロブスタ種の遺伝子も加わったハイブリッド種である。1927年、ポルトガル領東ティモールの個人農園でアラビカ種とロブスタ種が種間交配した新種の「ハイブリッド・デ・ティモール」(HdT, 別名ティモール・ハイブリッド)が発見された。品質的には現在のものよりも劣るが、ロブスタ種の耐さび病性を完全に受け継いだことでその後の交配育種が可能となった点に大きな意義があり、この出来事はコーヒー史のブンキロとみて間違いない。1959年には"Catimor""Sarchimor"といった新種が見いだされ、中南米諸国はこれらを元に接ぎ木で育種を行い、独自の耐病品種を作り出した。コーヒー生産国は一般的に貧しい状態にあるため、主たる一次産品にも関わらず研究開発に資金を投じることが難しい。そのため元来からの農技術である接ぎ木を活用することが多い。1世代に3年以上かかる接ぎ木によるコーヒー育種は21世紀に入って状況が変わろうとしている。先端研究機関(WCR)の報告によると、2014年にロブスタ種、2017年にアラビカ種のゲノム解読が完了した。分子育種(Molecular Bleeding)という"遺伝子にメスを入れる"先端技術で、迅速かつ理想的な新しい耐病品種の登場が期待されている。」

Q5-コーヒーの遺伝子組み換え?

「遺伝子組み換えコーヒーについて、"噂は聞くが明るみにでない"という印象である。そもそもコーヒーノキは多年生で自家受粉(アラビカ種)という特性をもつため大豆や小麦と比べて相性が良くない。大量生産向けのコーヒー栽培地ではコーヒーノキは10年~20年ほどが植え替えサイクルと聞くが、この長期スパンだと結果が約束されない。自分が育てているコーヒーの品種をきちんと把握している農園というのは実は少数派で、園内で交雑を繰り返した"交雑アラビカ種"がメインストリームのコーヒーだと推測される。そのため、遺伝子組み換えコーヒーノキがそうでないコーヒーノキと交雑する事態を招いた場合にカオスになってしまう。例えば、単一品種のロットを産出するコーヒー園にあるコーヒーノキと遺伝子組み換え種が交雑することは避けねばならないため、スペシャルティとの両立はありえない。逆にいうと、ロブスタ種の大量生産に集中しているベトナムでは、遺伝子組み換えコーヒーノキで囲い込んで生産体制をつくることはまだ現実的であるし、実際に生産の報告が上がっている。Q4で紹介したゲノム編集と呼ばれる技術を応用したコーヒーの新品種が登場することは十分考えられるが、遺伝子組み換えとの倫理的な差異については議論の最中である。」

Q6-温暖化によるコーヒー栽培チャレンジとは?

「非常に多面的である。実際に中国の雲南省には20世紀末から世界の大手コーヒー会社が続々と進出し、自社開発から出荷までを手掛けている。(スターバックスも初の自社農園を保有)。また、今後は日本でも本来は冬を越せないコーヒーノキが栽培できる素地が整ってくる可能性はある。このように、世界的に新興コーヒー産地の候補はあるが、個人でコーヒー園を経営する場合は広大な土地の確保と目標設定が肝心あと考える。"温暖化とコーヒー産地の拡がり"を連想するのは容易だが、前述したコーヒーさび病は高温になるほど影響力を高める厄介な存在だ。そのため、現在の主産地の多くは今後もコーヒー農家としてチャレンジできる保証はない(2050年問題)。気候変動は契約社会に身を置くビジネスマンには関心が低いかも知れないが、自然社会で営みを続けている農家には深刻な問題である。山を登るチャレンジ→コーヒーさび病の影響を受けにくい標高の高い場所へ移動、もしくは、山を降りるチャレンジ→コーヒー農家を諦めて都市部へ出稼ぎ。伝統的なコーヒー農家たちがこうしたチャレンジを迫られていることをまず理解したい。温暖化という21世紀的な課題に対して、もはや生産者や生産国という単位では対抗できないのは明白である。そのため、先進国側がより積極的に情報開示や技術提供を行い、多国間で向き合っていくことが求められている。日本国内のコーヒー栽培に関するニュースを聞くたびに、まずチャレンジに対する価値観のギャップも解消する必要があるように感じる。

Q7-コーヒーハウスの今昔?

「コーヒーは万人に受け入れらているようで、そうでない側面もある。今では"コーヒーと健康"の観点からはポジティブな評価が多いが、ヨーロッパが初めてコーヒーと対面した時は酷評されることも少なくなかった。なぜならヨーロッパへは同時期に、茶とココア(非アルコール系三大飲料)も流入したため相対的評価に直面したからである(価格の面でも)。それでもコーヒーは市民権を手にしていき、今ではヨーロッパ市民社会の覚醒を引き起こしたと言われている。コーヒーハウスが登場した1650年のイギリスでは入場料(1ペニー)を払えば大学のように何でも学べるという評判から"ペニー・ユニバーシティ"とも呼ばれたが、その反面で女人禁制であったし、政党別に会合を開く排他的なカフェも複数あった。フランスの"カフェ・ロワイヤル"は政府に追われた革命家や思想家などが集まるパリ最大の盛り場であったが、ここに出入りしていたジャーナリストのカミーユ・デムーランの演説(1789年7月12日)は直後のフランス革命につながるほど民衆を蜂起させたといわれる。『ALL ABOUT COFFEE コーヒーのすべて』の著者ウィリアム・H・ユーカーズはその著作の中で「歴史上、最もコーヒーが活き活きとしていたのは一七、八世紀のロンドンとパリのコーヒー・ハウスの時代であろう。そしてコーヒーに関する誌や小説の多くがこの時代に生み出されている」と記している。コーヒー・ハウスの功績は数え切れないほどあるが、新聞を読む習慣を下層階級まで広げた18世紀末から次第に"交流の機能"は滅んでいったとされる。アメリカ大陸で最も古くイギリスからの入植が進んだニューイングランドでは、17世紀末にはコーヒーハウスが現われていたが本国イギリスと比べると穏やかに飲用が広がった。実際は宿やパブの機能に組み込まれ、常連に提供する飲み物の一つ程度の存在であったとされる。日本においては1911年がコーヒー史の岐路といえる。この年に、銀座に"カフェ―・プランタン""カフェー・ライオン""カフェー・パウリスタ"といった有力店が相次いで開業した。3社ともに女性給仕の水商売色が強い業態であり、その影響を受けた同業者が東京と大阪に多くあったが、戦前までには文化人が会合を行うサロン(大正初期~)やドリンクと軽食のみ扱う純喫茶と呼ばれる業態に分化していく。戦後、特筆すべきは風紀への影響である。コーヒーのある場所は人が集っため、そうした会合を嫌う立場からはコーヒー禁止令もしばしば出された。17世紀後半のイギリス(チャールズ2世のコーヒー弾圧)、20世紀前半の日本(1929年カフェ・バー等取締要綱)、どちらも行政によりカフェ増加に歯止めがかけられた。背景が違うのは、前者は絶対王政時代で、貴族側が庶民階級の突き上げを嫌ったこと。後者は戦争へ向かう時代の中で、風紀の乱れを嫌った警察当局が規制に乗り出したというものである。戦後の日本には、自家焙煎や一杯淹てという"コーヒー自体の美味しさを売りにする"ようなコーヒー屋が点在していた。そして、80年代のグルメブームの中、1989年にフランスの有名レストラン「カフェ・レ・ドゥ・マゴ」が渋谷のBunkamuraに進出したのを大きな契機として"カフェーからカフェ"への深化も広がっていた。その一方で、カフェという概念が広がりすぎているが、長らく人と人の交流が目的であったコーヒーハウス史では、コーヒーの味を追求し客に提供するスタイルはとても新しい価値観であり、かつ日本らしいものでもあることは強調したい。ユーカーズが指摘したようなコーヒー・ハウスの役割は一旦の終わりを見せた。贅沢と恋愛と資本主義(1912 ヴェルナー・ゾンバルト)の価値観が世界を覆う中、コーヒーが過去のように場の中心にいるとは考えにくい。それえも活きたコーヒーを探すことはコーヒーハウス時代の懐古趣味と言えるかもしれない。

Q8-コーヒーの再利用法とは?

コーヒーは生産過程において多量の廃棄物を残す。原料でみた場合、世界で毎年収穫されるコーヒーチェリーの量は約25,000トンであるが、これは茶葉のおよそ倍の数字である。コーヒーはチェリーに含まれる種子がやがてコーヒーとなるが、脱穀された果皮・果肉(パルプと呼ばれる)はこれまで、河川に投棄され水質問題を引き起こす要因にもなっていた。そんな中、カスカラと呼ばれるドライのコーヒーパルプが注目を集めている。これは、元々アラブ圏の人々では一般的(むしろコーヒーよりも先)な飲用方法であるが、今ではコーヒー豆と同様にきちんと生産処理された"果実茶"として分類され一般消費国でも見られるようになった。他方で、消費者に身近な再利用法としては"コーヒー抽出かす"の行方についてであろう。コーヒー粉の構造が多孔質ということで炭に近いことを踏まえると多方面での活躍が期待されるが、市場に定着している再利用品は特に見当たらない。近年ではコーヒー会社も積極的に店舗回収を含めたリサイクルに乗り出している。抽出液を絵の具代わりにする"コーヒー染め"はより消費者に身近な再利用法である。」

Roast & Supply

©2019 Spring YUYA ROAST